ノンストップいぐざむ

細かいことは気にしないで生きています。

河童と銭湯

 

「ふぅ、今日も一日がんばったな」

 

仕事を終え、溜まった疲れを癒したいと思った僕は、銭湯へ立ち寄ることにした。銭湯なんてどのくらいぶりだろう。僕の住んでいる安アパートにはお風呂がついているから銭湯に行く必要はなかったけど、なにせ家のお風呂は狭いので、たまに銭湯へ行ってゆっくり湯舟につかるのも悪くない。

番台で料金を支払い、暖簾をくぐって脱衣所に入ると、そこには河童の姿があった。

 

一昔前は、河童といえば未確認生物、もしくはただの空想上の生き物とされていたが、近年、河童は発展の一途を辿る人間社会との共生を求めて、人間たちの前へと自らその姿を現した。内閣総理大臣と握手を交わす河童の姿がニュースで報道されたことは記憶に新しい。

人間と同程度の知能を持っていた河童たちは、すぐに人間社会へと溶け込み、情報機器や社会インフラを次々と使いこなしていった。もちろん銭湯もその一つ、入浴する河童の姿は、もはや珍しい物ではなかった。

 

とはいえ、河童が人間の社会に進出してきたのはここ数年の話で、それほど足繁く銭湯に通う習慣もなかった僕は、実際に銭湯で河童の姿を見るのは初めてだった。

ヒルのような黄色い嘴に、深緑の肌、そして頭頂部には湿ったお皿。この特徴は間違いなく河童のものだ。おそらく大人の河童だと思うが、背丈は人間と比べるとやや小さめで、大体150cmくらいだろうか。人間用に作られたロッカーの扉は、河童のヒレのような手では少し扱いにくそうに見える。

河童は、慣れた手つきでユニクロのウルトラライトダウンを脱いでロッカーの奥へ押し込むと、次に履いていたジーンズの後ろポケットから財布を取り出して、これはダウンの時よりも少し丁寧にロッカーの手前側に置いた。

ほどなくして、丸裸になった河童は、タオルとソープ類を小脇に抱え、浴室へと向かって行った。

 

丸裸と言っても、僕を含む多くの人間にとってはその姿のほうが馴染みがあって、むしろ服を着ている河童のほうがよほどおかしく見えたものだが、昨今では、そんなことを言おうものなら、河童の権利侵害に目を光らせているポリコレの団体が正義の鉄槌を振りかざしてくるので、あまり大きな声では言えない。正義の鉄槌というよりは、ゲバ棒という方がしっくり来るな、と僕は思ってはいるが。

河童の入浴に興味があった僕は、急いで衣服をロッカーへと押し込み、河童の後を追いかけた。

 

浴室で河童の姿を探すと、河童はすでにシャワーの前で、ケロリンの椅子に腰かけて身体の汚れを落としているところだった。

椅子なんかよりお前の方がよっぽどケロリンだろ、と言ってやりたいところで、これは危うく喉元まで出かかっていたが、必死の抵抗でなんとか言葉を飲み込んだ。念のため、もう少し水で流し込んでおいた方がいいかもしれない。

 

身体の汚れをシャワーで大雑把に落とした後、河童はボディソープで身体を洗い始めた。これは特に気になるところはなかったので、僕は泡に包まれて真っ白になった河童を落ち着いた気持ちで見ていることが出来たが、問題はその後だ。

あろうことか、河童はおもむろに、頭頂部に載せたお皿にシャンプーをし始めたのだ。

いや、お前それは違うだろう。

綺麗に手入れされた様子のピカピカのお皿の上には、シャンプーの泡がモコモコと泡立って、まるでカップに乗せた綿菓子のようだった。

唖然である。

お皿なんだから、身体と一緒にそのままボディソープで洗えばいいんじゃないのか。いや、むしろ洗剤だろ。ジョイで洗ってくれ、ジョイで。

というかシャンプー、お前もお前だよ。なんで泡が立つんだよ。頭ならなんでもいいのかよ。

 

もしかしたら僕が知らないだけで、河童のお皿の表面には、産毛か何かが生えていて、それがシャンプーの泡立ちを促進させているのかもしれない。もしくは、意外とあのお皿の表面ってザラザラしているのかも。

そのどちらにせよ説明がつかないほど豊かに泡立ったシャンプーが河童の頭を包み込んでいたので、僕はもうこれ以上何も考えないことにした。

こんなにもシャンプーが泡立っているのだから、あれはきっと髪の毛なのだろう。

もしくは、そうだ。お皿専用の特殊なシャンプーなのかもしれない。そうだ、そうに違いない。河童の頭からは、僕のよく知るエッセンシャルのシャンプーの香りが漂ってきてはいたが、僕は気づかなかったことにして、洗髪料メーカーの企業努力に感服の意を表明することにした。

 

河童は身体を洗い終えると、シャワーを止めて、湯舟へと足を運んだ。

河童の様子を観察していただけなのに、すっかり疲れてしまった僕は、それ以上河童について詮索することをやめて、しつこいくらいに念入りに、ゆっくりと身体を洗い、河童が銭湯をあがった頃になってようやく湯舟に浸かった。

やはり大きな湯舟は良い。身体に溜まった疲れがジワッとお湯に溶けていくような感覚に、僕は夢心地になった。銭湯に浸かると心が安らぎ、気持ちにもかなり余裕が出て来た。

そうだよ、河童がどんな風に銭湯に入ってたっていいじゃないか。

僕はさっきまでの不躾な考え方を大いに反省し、河童と共生し得るこの豊な時代に感謝した。

 

 

 

 

そんな出来事から数か月が経った。

この頃には、銭湯で見た河童のことなどすっかり忘れてしまっていたが、自宅の台所で洗い物をしていた僕は、手に取ったお皿が何かに似ているなと思い、必死に記憶を辿ってこの出来事を思い起こすに至ったのだった。

 

そういえば、河童がシャンプーでお皿を洗っていたなと、なつかしさにも似た不思議な感覚が僕の心をくすぐった。

僕はおもむろに風呂場へ向かって、シャンプーを手に取り、そのまま台所へまた戻ってきた。

 

河童の頭に乗っていた物とよく似た食卓用のお皿に、ちょこんとシャンプーをつけて、あえてスポンジは使わず、河童がやっていたのと同じように指でこすりつけてみる。

あんな風にモコモコと泡が立つだろうかと期待したが、そんな僕の期待を裏切るかのように、シャンプーは少しも泡立つことなく、ただヌルヌルとお皿の表面にその成分を引き伸ばし続けるだけだった。

汚れも落ちず、ヌルヌルになっただけのお皿からは、あの時と何一つ変わらないエッセンシャルの良い香りが漂っていた。

 

 

やっぱ、河童ってすげぇや。

 

 

─完─